プロフィール

はじめまして。
素敵なママの笑顔を引き出すカウンセラー谷口つくしと申します。

仕事と家事育児の両立に悩んでいる方、今後のキャリアについて考え中の方、パートナーことで悩んでいる方を中心にカウンセリングを行っております。

以前は、引っ込み思案で、いつも自信がなく、行動もできないので性格だったので、とてもったいないことに明るく楽しい青春時代もなく社会に出た感じです。もっとモテたかったし、自信に満ちて行動もできるそんな人に憧れてもいました。

希望通り、電機メーカーのエンジニア職を得たのですが、エンジニアの生活は思っていたものとはかなり違って、夢のような商品を生み出せる職業というより、残業・長時間労働」「納期」「階級社会がキーワードとなるような、これまた楽しくないそんな社会人生活のスタートでした。

そのあと結婚はできたものの、40代前の不本意な人事異動から公私ともに暗転し5年、10年ともがき苦しんだ中年時代でもありました。そこから、どのようにカウンセラー(キャリアカウンセラー)を志すようになったかについては、以下に詳細なプロフィールを綴ってみましたので、ぜひ読んでみてください。

私をあなたに知っていただきたいは、カウンセリングでは、あなた(クライアント様)と私(カウンセラー)の信頼関係そして相性がとてもとても重要だからです。そして、私のこれまでの人生がどのようなものだったのかを知っていただくことで、カウンセリングを受けてみようか、どうしようかとの迷いを少しでも払拭することができればと思います。

運動オンチで引っ込み思案な少年時代
部活動・人との距離感がわからず、部活動・サークル活動もできなかった高校・大学時代
電機メーカーに就職するも残業・休日出勤でプライベート時間がなかった20代
「男は仕事・女は家庭」の価値観にどっぷり
長男のときはそれなりに育児参加していたつもり
まったくもって不本意な異動命令、泣く泣く転勤
プライベート時間もなく、次男の世話はまったくできずのダメ夫・ダメパパ
将来が見えない、出口が見えない暗澹たる40代
収入が足りずプライドを捨てて妻にパート勤務をお願い
過労とストレスで倒れました、そして事業部も倒産
配置転換先が見つからず、単身赴任で他工場の製造応援の半年間
宙ぶらりんの9ヶ月を経て、最高の転属先をゲット!
やっと自分の天職に出会えた、キャリアカウンセラーという仕事
いつも時間と仕事に追われている職場のママさん
ママは家族のHUB(中心)です いつも笑顔でいて欲しい

運動オンチで引っ込み思案な少年時代

福岡県で、5人家族の長男として生まれました。子供の頃は、背が低くて、引っ込み思案な性格でした。

そして、運動神経ゼロでした。走るのは短距離、長距離どちらも遅くて、球技もぜんぜんできなくて。でも中学校に入って、運動ができないとちょっとやっぱりダメかなと思って、何か運動部にはいろうと思いました。

で、何にはいるかっていうのは、何でもよかったのですが、でも野球部はやっぱり、しんどそう、つらそうな感じが一番高い。あとは、何か球技がいいなとは思っていました。

たまたまその中学に入ったときに、席が近かった子(彼は私と違ってスポーツが得意な人)が最初、「僕はサッカーかバスケットをやりたい」って言ってたから、自分もそのどちらかでいいやって思っていました。

結局、彼がバスケットをやるって決めたというので、自分もバスケットボール部に入ることにしました。

今、思っても果敢にチャレンジしたなー、って思います。当然、万年補欠でしたが、背は中学の3年間で30cm近く伸びて、一番チビからは脱して、「少し背が低い」人になれてました。

人との距離感がわからず、部活動・サークル活動もできなかった高校・大学時代

中学では必死に3年間バスケット部でがんばったのですが、高校はやはり一段レベルがあがるし、かといって他の運動部は運動オンチの自分ではなおさら無理だったし、運動系でない文化部という選択肢もその頃は考えていなくて、帰宅部。時間を持て余してもったいない青年時代でした。

大学でも同様で、ただ理系で授業が過密だったのと、遠距離通学で時間がかかったので暇ではありませんでしたが、やはりサークル活動とかにうまくなじめなくてそれがコンプレックスでもありました。「上を向いて快活に」ではなく、「下を向いて暗い顔している」ことが多かったこの頃でした。

電機メーカーに就職するも残業・休日出勤でプライベート時間がなかった20代

子供の頃好きな科目は、図画工作の工作、技術家庭科の技術理科とかだったので、自分は中学の頃から進路は理系の方向だなとおぼろげ思っていました。

大学は、電気工学科だったので、一番安易な選択ともいえる、電機メーカーへの就職を決めました。自分が少年時代は、SONYという会社が本当にかっこよく輝いて見えていました(今もSONYはかっこいいですが、その当時はもっと輝いていて、今で言えば、AppleやGoogleを羨望のまなざしで見るのと似た感覚かなと思います)。

結局、SONYとは違うメーカーに就職することにはなったのですが(そしてそこには後悔はないのですが)、エンジニアとしての生活、働き方に入社早々いやになってしまいました。残業と休日出勤ばかりの日々だったからです。

同期の中には「どうせ早く寮に帰ってもやることないんだし残業代ももらえるからいいじゃん」とうまく適応できている人もいましたが、自分はなかなかそうも思えず、ただ、社会人たるものこういうものなのかもしれないと自分を抑えて周りに合わせるしかできなかったです。

「男は仕事・女は家庭」の価値観にどっぷり

20代前半までは、自分が結婚できるとも思ってなかったし(モテなかったし、なかなか行動もできない青年だったので)。でも、30代になる前に結婚できましたー。こんな私でもいいと言ってくれる奇特な方がいました。

結婚のタイミングで妻は退職して、専業主婦に。その当時は、「寿退職」(今は死語かもしれませんが)がまだまだ普通のことでしたし、本人も辞めたいと言っていたので、別に辞めてもいいですよー、と軽くOKしたように思います。

私自身も性別役割分担意識にどっぷり浸っていたので、「男は仕事・女は家庭」にそれほど違和感も持っていなかったし、男は大黒柱としてお金を稼いでなんぼ、との意識も強かったです(バリバリ昭和生まれの価値観)。

長男のときはそれなりに育児参加していたつもり

そして30代前半で子供も授かりました。妻は女の子が欲しかったとずっと言っていましたが、私はどちらでもよかった。でもできれば一人っ子ではなく、2人いるといいなーと漠然と思っていました。

病院は家から徒歩10分くらいの場所的にもとてもいい場所にあったので、産後の1週間は朝、会社に行く前と、帰ってきてから毎日、洗濯物を届けたりしてたような記憶があります。今、思い出しても我ながら微笑ましい~

赤ちゃんが家に帰ってきてからは、ベビーバスで沐浴させてあげたり、もう少ししてからは一緒にお風呂にはいったりできました。その頃はちょうど残業が少ない部署だったこともあって多少育児もできました。

最初は首もすわらない赤ちゃんをどう抱けばいいのかもわからず、「赤ちゃんを壊してしまいそう」で緊張して扱っていました。そのうちうまく抱えて背中をトントンして、げっぷを出させてあげることもできるようになりました。

当時は、男性育休などというものは存在も知らなかったし、育休をとる人もいなかった。でも子供はかわいかったし、今でいうならイクメンの仲間に入れたかも。

まったくもって不本意な異動命令、泣く泣く転勤

2,3年に1度は異動や上司が替わったり、転勤になったりといろいろありましたが、30代比較的長くいた部署は残業もあまり多くなく20代の頃より働きやすかったのを覚えています。

でも30代が残り2年ほどとなったのある日、この住み心地の良かった部署での上司から会議室に呼ばれて、転勤の内示をうけました。そこは仕事上の付き合いのある別の工場で、転勤を伴う異動になります。かつ、そこでは働きたくないと常々思っていた部署でもあり、そのときは相当へこみました。

そうはいっても、自分には転職という選択肢は考えられなかったので、行くしかなかったです。

プライベート時間もなく、次男の世話はまったくできずのダメ夫・ダメパパ

転勤のタイミングで、妻の妊娠もわかっていたのでなおさら経済的なリスクを伴う転職みたいなことは考えられない感じでした。

転勤では、通勤時間も大幅に増えて1時間半ほど。往復だけでへばってました。

そしてそうした中、次男を授かりました。長男は小学校に上がるタイミングで、妻は産後2、3ヶ月あまり動けなかったので、義姉さんのヘルプが助かりましたー。

妻の両親は遠方でしたし、私の母は長男が生まれた頃、すなわち、私が30代前半の頃にがんを患って亡くなっていたので、次男が生まれたときはどうしようと思っていたのですが、比較的フリーな働き方をしていた義姉に助けられました。

通勤時間はかかるようになったし、残業も一気に増えて、仕事漬けの40代スタートでした。必然的に、家に居れる時間は少なくなり家事育児の時間もとれない日々になっていました。土曜出勤も多く、日曜は疲れてへばっているそんな毎日を続けていました。家事育児は妻に任せっきり、ワンオペを強いていたダメ夫・ダメパパになってしまっていました。

将来が見えない、出口が見えない暗澹たる40代

40代からが会社人生、エンジニア人生の転落の始まりでした。同じ会社とはいえ、工場が違うとカルチャーも違うし、またもや猛烈残業と休日出勤の職場

仕事内容が変わったことで仕事に技術的にも付いていかない状態に焦り、もがきした40代を過ごしていました。今のままここでは成果が出せない、出せていないけど、それを打開する方法がわからずにモンモンと5年以上も悩んでいました。

会社の中だけを見ていてはいけないのかもと、本を読みあさったり、講演会などへ話を聞きに出掛けたりし始めたのもこの頃です。

思い出してみても、毎日残業の日々なので、帰りに一杯やって帰りましょうというサラリーマンのコマーシャルみたいなものは自分には無縁でした(社内での飲み会は歓送迎会と忘年会・新年会など年に数回の行事でしかなかったので)。一方、社外に友達というのもほとんど持っていなくて、閉塞感を感じる毎日でした。

収入が足りずプライドも捨てて妻にパート勤務をお願い

成果も出せないでいたので、給与も上がりません。次男が小学3年生になる頃、(結婚するときは仕事を辞めてもいいよと言っていたのに)妻に働いて欲しいとお願いしました。

自分がいつまで働き続けられるか自信もなかったですし、長男の教育費もだんだん意識せざるをえない年齢になってきていたこともあって。

「男は大黒柱としてお金を稼いでなんぼ」との意識も大きかったですが、そんなプライドを気にしている余裕もなかったです。公私ともに切羽詰まっていて、身動きがとれない感じでした。

過労とストレスで倒れました、そして事業部も倒産

40代でも何回か異動や転勤もありましたが、それも人生好転のきっかけにはならず、ジリ貧状態でどんどん悪くなっていきました。職場や仕事内容にも馴染めず、残業月80Hの日々で、ついに折れてしまいました。会社に行けなくなり、しばらくお休みに。

仕事に復帰してからは納期に追われる仕事からははずしてもらいましたが、健康にも仕事にも何にも自信が持てない状況になっていました。

自分のキャリアの先行きも全然見えず、とやっていたその頃、それまで順調に業績を伸ばしていた勤務先(会社)だったのですが、ある年から自分が所属していた事業部の業績が急激に悪くなって、事業部が赤字倒産。700名ほどの余剰人員が発生しリストラに遭うことに。

自分はエンジニアとしての能力に限界を感じていたので、今後は、人材開発などの仕事をしてみたいと希望は出していました。しかし、配置転換先がなかなか決まらず、本当に人生最大のピンチに陥っていました。

配置転換先が見つからず、単身赴任で他工場の製造応援の半年間

事業部倒産後、転属先もみつからず、6ヶ月の間、他工場に製造応援に行くように命じられました。単身赴任だったこともあり、気分が沈んだ日々でした。

製造応援が5ヶ月ほど経った2月、人事から1つの求人案件を提示されました。そこは自宅から更に遠くなる、関係会社の工場の求人でした。エンジニア職だったし、単身赴任になるし、でも、「断る」という選択肢はなくて、入社面接に臨みました。

合格して入社をしたい気持ちは無いけど、この5ヶ月で初めて求人紹介、このあと紹介してもらえるかもわからない中、不合格になり行き先無しの宙ぶらりんもイヤだ。どっちに転んでも嬉しくはなかった、そんな心境でした。

結果は不合格(同じ時に4人面接に行ったのですが、私以外の3人は合格)。不合格通知を受け取ったときは、なんとも表現できないような気持ちでした。

宙ぶらりんの9ヶ月を経て、最高の転属先をゲット!

そんなこんなで半年ほど経った頃、ある心理学スクールに出会いました。たまたま紹介して下さった方がいて、藁にもすがる思い行ってみたのでした。

結果論になりますが、そこでカウンセリング心理学を学ぶことで気持ちの立て直しができました。そしてそのことが人生の転機となりました。

事業部倒産から8ヶ月ほど経った6月、人事から新たな求人紹介を受けました。今度は、人事職の求人。希望していた人材開発・研修のお仕事にも近い仕事。かつ、勤務先が自宅から通える(単身赴任しなくてもいい)という好環境でもありました。

職場のあるオフィスビルで面接がありました。ここまで数ヶ月、カウンセリング&心理学を学んできていて、気持ちも穏やかになってきていましたし、コミュニケーションも以前より円滑にとれるようになっていました。2月のエンジニア職の面接時とは気持ちの面でもポジティブに変わっていました。

面接官は、後に上司となる方でしたが、とても好意的な受け答え、双方向コミュニケーションでした。面接が終わった後、好感触を持ててましたし、これで落ちたならもうしょうがないと、そんな気持ちでもありました。2,3日で人事の方経由で結果が通知され、無事採用とのこと。社内失業から約8ヶ月、やっと行き先が決まって、うれしいやら、ホッとしたやらそんな気持ちでした。そのことを妻にも報告できて、一緒に喜び合いました。

そこで人事系の仕事に転換できて人生好転し始めました(個人的に通い始めた心理学スクールの出来事と会社の配置転換も集合無意識※という意味では繋がっているのですね)。

集合無意識…私たちが共有する心の奥底で、みんなが共通して理解できる基本的なアイデアやイメージが詰まっている場所だと考えられています。スイスの心理学者ユングが提唱した概念。

やっと自分の天職に出会えた、キャリアカウンセラーという仕事

人事での最初の仕事は、企業年金基金という部署でした。退職金の一部を年金で支給するのが主な役目ですが、難しい企業年金制度を国の年金制度を年金セミナーや個別相談で啓蒙活動や説明することも自分の仕事の一部でした。

その後は、ライフプラン(ファイナンシャルプラン)セミナーの企画運営、そしてコテコテの労務事務のお仕事を経験してきました。

人事系にキャリアチェンジできて10年超。その間にキャリアカウンセラー、キャリアコンサルタントといった職業、資格があることも知りました

40代の暗黒時代にそんな相談できる人の存在を知っていたら、そしてそんな方と会話できていたらそれほど荒んだ気持ちになっていなかったかもなどと思うこともありました。そしてその資格を取得して、これを生業にしていきたいと思うようになりました。

いつも時間と仕事に追われている職場のママさん

時代は、女性活躍、そして、働き方改革が叫ばれるようになってきたタイミング。自分は、20代の頃から残業イヤだなーと、ワークライフバランスが取れた働き方に憧れていました(その頃はワークライフバランスなどという言葉もなかったですが)。

保育園の子供、小学生の子供を育てている方もいらっしゃるし、もう、高校性や大学生になったお子さんのママという方もいらっしゃいます。短時間勤務のママさんもいれば、育休で休職中の方もいらっしゃいます。

そんな職場で働いてきて、ちょっとしんどそうだなーと感じる方、そして、あるとき、仕事と育児の両立に疲れて退職することにしました、と職場を去って行く方もいらっしゃいました。

時短勤務をしているのに、残業をしている、させられているという人もいませんか? 通常勤務の時間、会社に滞在していては、育児や生活が回らないから、給与が減るにも関わらず時短勤務を選択しているのですよね?

それなのに、残業しないといけない、ってどこか間違っている気がしてしょうがありません。

会社員としての人事労務の職場では、私はカウンセラーとしての立場ではないし、そのような働きが求められるわけでもありません。

もし職場に相談室があって自分がそこのカウンセラーだったしたら、もう少し、そんなママさんたちのお話しを聞いて差し上げることができたのでは。そして、そのことで微力ながら励ましたり、一緒に考えたりすることができたのではないかとも思っていました。

ママは家族のHUB(中心)です いつも笑顔でいて欲しい

ところで、みなさんは、どんな家庭を知っていますか?

私は、2つの家庭を内部から見て知っています。1つは自分が生まれて育った家族、父母と兄弟がいた家族。もう1つが、自分が結婚して持った家族、妻と息子たち。自分が子供だった家族と、自分が夫・父親だった家族。

自分が結婚して作った、作っていった家族というのは、モデルがあってそれが自分が子供として育った家族。家族ってこんなものかなーっていう無意識の刷り込みから同じような、同じように家族を作っていっていたのかもしれません。

2つの家族で共通していることは、お金を運んでくるのは、父親の仕事(多分に昭和の価値観ですが)。でも、夫を持ち上げつつ、実際に、家族を回している、その中心にいるのは、妻であり、母親です。家族の中心はママなのです。潤滑油の役割もあり、エネルギー源の役割もあるイメージ。

ママの元気がないと家族全体が停滞ムード、逆にママが笑顔で元気であれば家族はハッピーオーラだと思います。これって、私の家族だけじゃないですよね?

学校を卒業して、就職、結婚、出産、子育てなど様々なライフイベントが目白押しの女性(→ママ) のみなさんにいつも 笑顔 の人になってもらうことが願いです。

つくしスタイルのカウンセリングでは

 ・安心の土台を作るワーク
 ・自信を築くワーク
 ・不安とイライラを解消するワーク
 ・解決志向ブリーフセラピー

などの手法やアプローチを使って、日々の不安・不満、生きづらさをから開放し、笑顔を取り戻してもらいたいと思います。

ママが笑顔であってこそ、家族はハッピーになれるのです。ママの笑顔無くして、パパの幸せも子供の幸せもありません。まずは、ママご自身がハッピーに、笑顔になってください。

【ママは家族のHUB(中心)です】 いつも笑顔でいて欲しい のです。

<今のプライベート>

神奈川県在住。家族は妻と2人の息子。
息子はようやく2人とも大学を卒業して、社会人として働き始めています。なので、子育てはもう卒業といったところ。妻は、子供が小さいうちは専業主婦でしたが、子育てが少し手が離れるようになってからは、パートで働くようになって今も勤務しています。